香港 [旅行]
1985年、私47歳で香港、マカオへ行きました。
マカオでは初めてネオン輝くカジノに行き、パチンコもしたことないのでビックリでした。
アバデーィーンレストランで生簀から選んだ魚介類を食し、タイガーバームガーデン(現在閉鎖されているらしい)に行き、有名なドッグレースを見ました。ビクトリアピークの夜景を楽しみ孫文の生まれ故郷である中山県で記念館を見ました。
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マカオの聖ポール天主堂跡。
タイガーバームガーデンで。
ドッグレースをみる。レースの前の犬達、犬種はグレイハウンド。
中山県 孫文記念館。
それから2016年、31年振りに再び香港へ。
以前の景徳空港は市街地スレスレにガクッガクッと機体を段刻みに着陸態勢を取るのでベテランのパイロとでも難しかったと聞いたことがあります。
すっかり開発されて香港国際空港となってます。
行っておいて良かったです 楽しかったあの香港はもう見ることが出来ないでしょう。 そして行く事は不可能でしょう。
C国が恐ろしい香港国家安全維持法案なるものを成立させて他国の人間までに適応させるという暴挙に打って出ました。 香港から台湾に逃れる人が出ているそうです。
その台湾も、日本の新聞やTVでは報道されていませんが台湾有事が囁かれている様です。
いずれにしても、あのC国へ絶対みたいと行った万里の長城や兵馬俑坑初め多くの世界、文化遺産を気軽に見に行く事は怖くてとても行動に移せません。
最も現在の体の状態では無理ですが、だからあらためて行って良かったと思います。
あの何とも楽しかった食べ物が美味しかった香港は消えてしまいました。地元香港人が言ってました。C国人は嫌だ、C国から来る観光客は礼儀もへったくれもないので迷惑だと。
実際ザ・ペニンシュラホテル内の階段に座って団体が大声で話しているのを目撃、こっちが恥ずかしくなるくらい。
地震がないので高層ビル群が林立しています。
香港トラム、二階建て路面電車。 ひっくり返りそうだたけれど楽しかったな。
長い、長い地下の動く遊歩道。
昔と同じ竹の足場、3年間勉強した職人は高収入だと聞いた。
香港ドルの紙幣は種類が多い。
ほんの一部の写真です。 しかしーーどうなるんだろう?香港。
若いから行けたサイパン [旅行]
ウイルス騒動の最中新聞の折り込み広告が全然入っていませんでした。 旅行案内の雑誌も毎月分厚いのが届いていたのに皆無でした。
Go to TravelがGo to traoubelなんて揶揄されて思わぬ失策でしたね。
こんなご時世にいくら割引だなんだと言われても行く気になりませんからね。それでも今日はいつもの某旅行会社から案内の雑誌が届きました。
パラパラとめくって資源ゴミ行きです。 印刷代、郵便代もかかるだろうなあ、と要らぬ心配をしましたが。
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1997年11月、急に娘夫婦に誘われてサイパンに行きました。
まだ足も腰も痛くなく、1週間の7日が足りないくらい毎日ソシアルダンスで踊り狂っていました。
当時は腰が痛いなんて自分がなるなんて思いもしなかったのです。 歳を取るという事はあちこち故障が出て来て当たり前のこと、でも先日新聞で見た「アイアンマン世界選手権」で史上最高齢85歳でギネス認定された千葉の男性の様な人もいます。 日本の男性の平均寿命が81・25なので凄い人ですよね。 普通なら寝たきりか死んでますよ。
現在なんでもなく若さを謳歌している人でも、こんな筈ではなかったと思う時が来るはず。私も元気そのものだったのです。 だから行けたのです。
万歳クリフ。 日本軍が全滅してたくさんの民間人や兵隊が飛び下りた所。
彼方此方に砲弾の痕があり、日本軍の大砲もありました。車で島を一周すると戦争の爪痕がたくさんあり涙が出ました。 あの灼熱の地で必死で戦った人達の冥福を祈らざるをえません。
朝早く海岸に出ると、日本が統治していたので、日本語が話せる人が話しかけて来ました。
娘夫婦の仕事の関係でレセプションパーティーがあり私も参加させてもらいました。
日本語の上手だった島のおさのサブランさんに紅ショウガは日本人に教えて貰ったと聞きました。
ホテル・ニッコーにて。JALホテルズ傘下、2008年閉業。
若い時はホイホイでかけられたのに、絶対行きたかったペトラの遺跡行きも夢と消えました。
トルコ8日間 [旅行]
2005年、もう15年も前になってしまうけれど古い写真を見ると昨日のことの様に思います。
まだ70歳前で旅行して1年経つとまた何処かへ行きたくてウズウズしていたものです。
成田からタシケントで乗り換えてイスタンブールへ。
バスでエーゲ海岸の町アイワルク、エフェソス、コンヤ、パムッカレ、カッパドキアと周り、寝台車アンカラエキスプレスでイスタンブールへ、そして帰国、の8日間でした。
トルコ世界遺産アヤソフィアを観る。ブルーモスクとも言いますね。ギリシャ正教の総本山。最近再びイスラム教の礼拝所モスクになり欧米各国はモスク化に懸念を示しているとか。 私が行った時は聖母子像のモザイク画など見ることが出来たし、赤地に模様があるカーペットが敷き詰められていたけれど、エルドアン大統領の好きな青色のカーペットに変えられたとの事。
何故トルコに行きたかったのか? カッパドキアの奇石を見てみたい、それと上野の美術館で観たトプカプ宮殿展かトルコ展の素晴らしさに魅了されて。
オスマン帝国の権力と贅の象徴トプカプ宮殿は本当に必見です。
カッパドキアの奇石。
洞窟レストランで壺焼き料理。
トロイの遺跡(レプリカ) ドイツの豪商シュリーマンが発掘した栄枯盛衰を物語る遺跡を見学。
古代都市エフェソス円形劇場の遺跡を見て一路白い石灰岩で有名なパムッカレへ。石灰棚に温泉が沸き裸足になって流れる温泉に足を浸しました。
雪ではありません。綿の産地だったのでパムッカレ (綿の城)と呼ばれているそうです。
アジアとヨーロッパの境界線ボスボラス海峡をクルーズ。ガタラ橋の上で沢山の人達が釣りを楽しんでいました。
アガサクリスティ、オリエント急行に出てくる駅。
レストランになっていてここで食事をしました。
トルコのお土産と言えばナザール・ボンジュウですね。バスは勿論レストラン至る所に大小のナザール・ボンジュウが壁や柱に掛かっています。 トルコに古くから伝わるお守りで魔を祓う、人の念を寄せ付けない、身代わりになるなどのご利益があるとか。アラビア語で「目」の意味、ボンジュウはトルコ語で「ガラス玉」の意味だそうです。
直径30センチ位の大きな目玉を見ました。
ず〜〜っと柱にかけているので金属部分が錆びてきた。この目玉に守られていると言う実感は今のところありませんが。
写真の整理をして記憶を辿りながらなので、トルコ編はこれにてお終いにします。
ありがとうございました。
セントルイスからサンフランシスコ [旅行]
Gateway to the West アメリカ西部開拓史上に残るルイス・クラーク探検隊の出発地点に近い所。
このゲートウェイ・アーチは高さ192mでアーチの中を観覧車のゴンドラに似たトラムで展望台まで行って帰ってこられる。
アーチの地下は西部開拓博物館になっていて、写真、農機具やバイソンの剥製などが陳列されている。
私が行った当時はバックに木々しかないけれど、現在はダウンタウンのビル街をバックの写真を目にする。
アーチ上から見たセントルイス球場。 バドワイザービールのオーナーAnheuser Busch三代目の持ち物(現在はスポンサー)とか。ブッシュスタジアムとも言うらしい。
バドワイザーの工場を見学しました。入り口にはコマーシャルに使われた馬達が迎えてくれ、現在はどうか知りませんがビールは無料で飲み放題でした。
見渡す限りの葡萄畑を進み、カリフォルニアのナパバレーワイナリーに行きました。 ワイン貯蔵所を見てピクニック気分でチーズやアーティチョクなどを芝生に座って食べました。
広大な敷地にホテルもあり,くまなく見学するには4日はかかるらしいです。
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サンフランシスコでは、 姪の友人のロバートさんの車でゴールデンゲイトブリッジに行きました。
橋に使われている一本のワイヤーの断面です。
連邦刑務所として使用されていたアルカトラズ島。いろいろな映画もありましたね。
今は観光客に公開されてフェリーで島に渡る事ができるそうです。
ヨセミテに行きたかったけれどロバートさんの都合がつかず断念しました。もう二度と行く事はないでしょうが良い思い出になりました。
紙の写真から自己流でiPadに移すので少しだけのアップです。
ミズリー州 セントルイス [旅行]
昔の紙の写真を整理しています。
1995年6月21日25年前になりますね。わたし57歳で若かった。悪性リンパ腫で亡くなった妹と姪の3人の珍道中でミズリー州のセントルイスに行きました。
セントルイスは高校で日本語教師をしている姪がいるので思い切って行くことに決めたのです。
当日、函館空港で全日空のハイジャック事件があり、成田発857便13時55分が18時30分となってしまったのです。
ロスでTWA(トランスワールド)に乗り換えるのに(2001年にアメリカン航空に吸収)四苦八苦正でした。まさに冷や汗もの。
そんなに大きな空港ではないので、今の様に日本人は見当たらず、片言で必死でした。
やっと搭乗したら姪の席に自分の席だと言う男性が来て、座席チケットを見せて無事に一段落。
この時ばかりはもっとペラペラと喋れれば、と痛切に感じました。
言葉が出来きればビクつかずにすみますよね。
辿り着いたセントルイス・ランバート国際空港、旧称ランバート・セントルイス国際航空。 姪が迎えに来ていてホッとしました。
飛行機が大幅に遅れたため姪のホームステイ先には翌日行く事にしてホテルへ、ビールを買う為スーパーによると子供と間違われ、ここでまた四苦八苦。
昔、アメリカの高校生に同じ高校生なのに小学校5年生と言われました。
ホテルに着いて妹と飲んだバドワイザーの美味しかった事♩♩♬
姪の高校生の教え子と。
大人の生徒と。初めて来客がると家の中のツアーをするんですね。バスルーム、ベッドルームなど見せてくれます。 ウチなんかツーアーどころじゃありませんよ。二歩進めば行き止まり。
姪のホームステイ先のモニカのご実家にお呼ばれされてお母様のフランス料理フルコースをいいただきました。 室内に流れるアマリアロドリゲスのファドの名曲 私が知っていたのでそれを言うとすごく喜んでくださいました。 そのお母様も数年前に亡くなられたとか。
広い芝生にリスが遊びタイサンボクの大きな白い花が咲いていました。
写真の整理で記憶が鮮明に蘇ります。
行っておいて良かったバリ島 [旅行]
ウルワットゥ寺院で猿にメガネを取られて、無事に取り戻して貰ったのでにケチャダンスを見ることが出来ました。
裸の男性たちが「チャッ チャッ」と声を上げながら円になって踊る大迫力のあるダンスは、ストーリーがあります。 インド古代叙事詩「ラーマナヤ物語」の一部を基にしたストーリーで正面の割門から男たちが出てきます。 物語の概要のプリントが配られるので十分理解出来ます。
バリ島寺院はバリヒンデゥ教の為、露出したタンクトップやショートパンツでは入れないのでサロンと言われる布を腰に巻きます。持ってない場合は入り口で借りることができます。
タナロット寺院の五千人の男のケチャダンス。 これは次に行った時に観た海に浮かぶタナロット寺院です。
次から次へと湧いて出てくる裸の男達のケチャダンスは壮観でした。 夜になると皆、松明ををを片手に踊ります。
インド洋に太陽が沈む、感動的な瞬間です。 地元の若者が泳ぐ姿も絵の様です。
アグン山 3014メートル。 私が行った時は静かでしたが2018年、2019年と噴火して空港が閉鎖されたことがあったそうです。
アグン山の麓にあるのがバリ.ヒンドゥー教の総本山ブサキ寺院。
何処かで必ずと言って良いほどお祭りがあり、日に3回も御供物のチャナンを家々の至る所に捧げる。
チャナンはココナッツの葉で手編みした小さなお皿で色取り取りの花やお米を乗せる。
車や道路などその辺にいっぱい散らかって野良犬が食べたりしている。
市場にゆくとチャナンも売っているし南国の果物、花が満載。
信心深い事は良い事だろうが、とにかくお祭り好き。 車で巡ると、若者が木陰でたむろしているのをよく見かける。 暑いから仕事にならないのか? 聞くところによるとバリの男は優しいけれど怠け者が多いとか。
海に行けば小金を持った女子をジゴロが狙って居る。そんなの目の当たりにしましたよ。
夢夢女子の一人旅はお気をつけ遊ばせですね。 赤道超えのバリ島、暑いの苦手ですが4回も行って良かったです。 マスクつけてあの暑さじゃ死んじゃう〜。
たくさんありすぎなので、ここまで。
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毎日毎日雨続きで嫌になります。 でも好天ならば外出したくてウズウズしている人は一斉に出てゆくでしょうね。 梅雨明けも8月になりそうとか。
メガネを取られる ウルワツ寺院 [旅行]
2002年 猿にメガネを取られる。
私は4回バリ島に行っている。 最初に行った時、島の最南端のウルワツ寺院で猿にメガネを取られた。 帽子やバッグを取られるので気を付けて、と言われていたのにほんのちょっとした隙にパッと取られた。
インド洋に沈む太陽の素晴らしいこと、寺院内のオープンステージで観るケチャダンスが有名だ。
日没から始まるケチャダンスをメガネなしでは見ることができない。
途方にくれていると現地の男性が取ってきてくれると言う。
断崖絶壁を降りて取ってきてくれ
た。白くみえるのが取りに行く人。
取ってきた中には帽子やら数点のサングラスなど、私のメガネも無傷であった〜! お代は50万ルピア(日本円で約4000円) 今は バリ島の物価も上がっているらしい。
娘が現地ヌサドアで雇っていた庭師と家政婦の給料が7〜8千円だったので良い収入でしょう。 しかしあの絶壁は命がけだが。
ところがこの猿たちと人間が結託してやっている金稼ぎだと分かった。 最近では猿が餌付けされてあまり見かけなくなったと言うが、それでもサルはちらほらいるらしい。
メガネを拾ってきてもらったお陰でケチャダンスを見ることが出来て良かった。
インド洋
まだまだ武漢肺炎ウイルス感染者は後を断ちませんね。
騒動勃発から電車バスに乗っていません。 昨日は白内障を遅らせる目薬を貰いに、次に3ヶ月に一度の歯のクリーニングと医院のハシゴでした。
何と5日にコンビニに支払いに行ってから12日振りの外出です。徒歩で3625歩。
これも信用できませんね。 だって歩幅が狭いもの。
転ばずにやっとの思いで家に辿り着きました。
若い時は何処か行きたくてウズウズして居たのに、悔しいですね。 もっとも元気でもこのご時世では旅行なんて出来ませんけどね。 飲んで クッチャネの毎日で腹ボテになるのも仕方ないです。
皆様にアドバイス頂いた紙の写真を取込の件、ありがとうございました。
自分流で続けております。 スキャンをすれば簡単ですが、PCが無いので仕方ないです。写真屋さんに持っていってデジかル化も教えていただきましたが、お金をかけてやるほどの写真でもなし、死んだ後誰も見ないだろうしね。
iPadにスキャンする方法あるのかしら?
ネタがないのでバリ島続きます。
追記 今検索したら 「フォトスキャンbyGoogleフォト」と言うアプリがあり。
アイホンで紙の写真を撮るのは私がやっているのと同じ。四隅の丸に合わせてシャッターを切ってiPadにエアードロップする。 出来たよ〜〜!
タグ:猿 メガネ 金儲け?
シンガポール 昔の写真 [旅行]
シンガポール ラッフルズ・ホテルにて。 名物ロングビールを飲む。
沢山のピーナッツ、殻は無造作に、やたらと床に捨てて良いのだ。 殻をバリバリと靴で踏みつける心地よい音。
背が低いので立ち上がって飲んだ。
シンガポール動物園ではチンパージと肩を組んで写真を撮ったりナイトサファリを楽しんだ。
世界の三大がっかりと言えば昔からブリュッセルの小便小僧、コペンハーゲンの人魚姫、シンガポールのマーライオンと言われているがマーライオンも見た。 なんだあれは! セントーサ島も行ったっけ。
昨日の東京都知事選挙に行ったが、マスクしているだけで暑くて具合悪くなりそう。
なので、どっこへも出かけず従ってネタもなし。
思い出と共に昔の写真をアップするか?
どうしても見たかったので行ったけれど、今じゃ怖いよう。))8) [旅行]
武漢肺炎の終息はまだ見えませんね。
このクソ暑いのにマスクにメガネでは息苦しいでしょう。 昨年1ヶ月の入院で、退院してから1年になります。
そろそろ体調回復に向かっている頃に この武漢ウイルスの騒動が始まりました。
ですからでどこへも出かけない日が続いているのです。
新しい生活様式と言ってマスク着用手指の消毒、外食するのも大変。 最も私はこんな騒動前から潔癖症で外出時には真夏でも手袋をしていましたし、つり革やドアノブは勿論自宅のドアノブも触るのを躊躇するくらいですので、
帰宅したら直ぐ靴下も下着をのぞいた衣類は着替えます。
土足で上がる欧米の生活だったら耐えられません。キスやハグが当たり前の人達は文字通り濃厚接触ですよね。
ところで、こんな自粛生活で何年振りかで引っ張り出したアルバム、当時アイホンなんか無かったのでデジカメで撮った写真は分厚く重いアルバムです。アイホンにした以降はiPadのアルバムに収めています。
私の友人は終活でスーツケース二個分の写真を捨てたそうです。
是非行ってみたい、と思っていた中国。 それは西安の兵馬俑坑、万里の長城、死ぬまでに一度 と意を決して64歳の時に、1人参加のツアーに申し込みました。
それぞれ初めて会う人たち、でも一週間の間に気心が知れて楽しい旅となりました。
北京 西安 洛陽 蘇州 上海を列車で巡りました。思った通り兵馬俑坑は凄かったです。
こんな素晴らしい遺跡群を造った中国なのに、何故今中国は世界でも嫌われる国になってしまったのだろう?
私もその中の1人、ウイルスばかりではなくウイグル、チベット人などの臓器を取り出し売買していると言う現実。彼らウイグル、チベットの人たちは宗教上ハラール食なので中東の大金持ちなどに需要があるとの事。人権問題も甚だしい。香港問題、尖閣諸島付近に連続侵入する中国海警局の船などなど。 中国共産党がロクデナシ国家だから。
当時はよく知らないでウキウキ気分で観光に出掛けたわけ。
万里の長城 発達嶺。
河南洛陽龍門石窟。
西安 秦始皇帝陵 兵馬俑坑博物館 一体一体全部違い等身大で当時は彩色されていたとか。
正に圧巻という言葉を通り越している。私が行った時は未だ3号坑が未発掘だった。
写真の一部だけれど行っておいてよかった! 今健康で若くても現状の中国へは絶対行かないだろう。
もっとも、武漢ウイルスの為北京市場が閉鎖に追い込めれているし何を食べさせられるか分かったもんじゃないし。北京市民の七割の胃袋を満たしていた市場は毎日3万台の車、5万人の人が出入りするとか。
あー怖〜い!
未だに原因が分からない、武漢ウイルス研究所から出たことは確実なのにねっ!
タグ:中国 今じゃ行けない
無言館 [旅行]
上田電鉄別所線に乗ります。
二両編成で車両の真ん中に優先席があり、とっても綺麗でした。
びっくりしたのは、停車した時に開くドアーは進行方向1両目の端のドアなので、知らないとうっかり乗り過ごすことになります。勝手知ったる人たちは下車駅が近づくと一番前まで移動していました。
発車するとすぐ千曲川の鉄橋を渡り、私達は塩田町駅で下りました。
のどかな駅でここから「信州の鎌倉シャトルバス」に乗ります。
ハイキングコースもあるようですがとて歩けません。
町並みを走りどんどん新緑の山奥に入って目的地に着きました。
果たして坂道がどの程度なのか、不安を覚えましたが酸素ボンベを引いている高齢の男性も居たので、私もゆっくり歩きました。
緑深き中に遠慮深く佇む、戦没画学生慰霊美術館「無言館」です。
決して有名な絵はありません。戦時中数多くの若者が戦地に駆りだされつゆと消えました。その中には1分、いやあと5分でも絵を描き続けたいと思いながら絵筆を銃に替えなければならなかった無念さを思うと涙かこぼれます。
恋人の、妹の、そして母親の肖像。 画材が手に入らず紙くずを拾って描いたり、粗悪な小さな手帳に食べたいものが書き込まれていたり。
遺族が大切に保管していた使っていた画材、戦地からの手紙、絵や卒業証書,戦死報告書写真などが絵画と共に陳列されています。
「無言館」の名前の由来を館長の窪島誠一郎さんは自著の絵本の中で、 「だって戦死した画学生さんの絵の前に立つと 「悲しくて くやしくて つらくて 何も言えなくなっちゃうんだもの 黙るしか無いんだもの」
若い女性がすすり泣きながら食い入るように観ていました。
知覧の特攻記念館も行きましたが、同じようなもの有りそれが人の心に響くという点では変わりないと思います。
中央の立派な美術館と違い立地条件も悪い、開館10年でも知名度はまだ無い。私は開館当時うっすら知り、一度は行きたいと思っていたけれど、眼の先の事に追われ忘れていたのです。
入館するもチケット売り場が無い、出口で1000円の入館料を払う。
坂を下りて右に傷ついた画布のドームがある。
名前の通り天井はドーム型で戦没画学生のデッサン、秀作、絵画が埋め尽くされています。
受付の人にお聞きしたら天井に貼る作業は竹を使って大変だったとか、詳しいことはわかりませんが全部コピーではなくて本物だそうです。
敷地内には沢山の絵筆が嵌めこまれたモニュメントが有ります。その上部にペンキを叩きつけたような所が有ります。
2005年にこの「記憶のパレット」というモニュメントが不届き者のによって赤いペンキで汚されという事件がありました。
それを受けて無言館が多様な見方の中にある美術館であるということを忘れないために敢えてデザインされたそうです。
ポストは「開かないポスト」今の気持ちや、願い、など投函するとこのまま永久に保存されます。
私も、葉書を買って気持ちを書いてて投函しました。
ところでご存知でしたか?窪島誠一郎氏を。 戦没画学生の遺族を訪ねて一点一点集められこの無言館をおつくりになった方。 あの故水上勉氏のご子息です。
ひざ痛のため海外はもとより、もうどこへも出かけられないと思いつつ、でもなんとか動けるうちに、と思いたったら吉日、と行きはバス、帰りは北陸新幹線で目的を達成出来ました。 すっかり体力を使い果たし回復に時間がかかっています。
一度は足を運んで欲しい「無言館」でした。
タグ:戦没画学生美術館 無言館