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戦前、戦後の記憶 [雑記]

 終戦(敗戦)から71年、早いですね。 あの日やはり暑い日でした。

 第二次大戦で亡くなった方は軍人、民間人、飢饉.病気など合わせて総数5000万~8000万人。8500万人の統計も有るそうです。 夥しい数ですね。

 私は無事に生き延びて今日に至っていますが、壮絶な死で亡くなられた方のご冥福を祈らずにはいられません。一人一人の人生が断ち切られてしまった無念さは想像をはるかに超えたものでしょう。 

 年々戦争体験をした人が減って約二割しかいないそうです。

 

  私のほんのささやかな記憶だけれど。

 

 戦前は池袋に住んでいて戦争をしていたなんて知らなかった5歳ごろ、よそ行きは真っ赤なセーラー服のワンピースの袖に当時同盟国だったドイツの元になったプロイセンの鷲のマークが刺繍してありました。

 省線に乗ると鼻の大きなドイツ人の夫人が綺麗な扇子で扇いでいた姿が記憶にあります。 

 サーカスを見に行けば数頭の象がおでこに日の丸を付けて、いっらっしゃい、いらっしゃいと頭を上下させていました。

 その時はまだ平和な日本だったのでしょう。ウチには蓄音機もあって童謡を聴いたり、滑り台や木馬が有って近所の友達が遊びに来ていました。 

 そのうちにいつの間にか庭に防空壕が有っり、近所の主婦たちが防火用水でバケツリレーの訓練をしているのを眼にする様になりました。 

 「空襲警報発令!」と繰り返し外で叫んでいる声を聞き、電灯の周りに黒布を掛けてある 電気を消してひっそりとしていました。連夜、灯火管制がひかれました。 

 枕元には炒ったお米を入れた靴下や、持って逃げられる荷物を置いて寝ました。 

 空襲警報のサイレンが鳴るとやっと歩けるようになった弟が「鳴った!」と言って飛び起きたのをよ~く覚えています。 夜中に町内で非難する防空濠へ何度も避難したことも有りました。  自宅の庭の防空壕はトタンを乗せた物なので、爆撃に遭えば蒸し焼きになる事必至でしょう。

 

 比較的裕福な生活が一変、戦争が激しくなる前に、私一人父の実家である京都は綾部に行かされました。入学前でありながら寂しいと思った記憶はないんですよね。 たまに兵隊さんが来て塗り絵なんか一緒にやった記憶が有ります。

 今でもはっきり覚えているのは、空襲警報があると、裏の横穴の防空壕へ籐椅子を運んで 医者である白衣の祖父をお殿様よろしく、叔母たちが避難させていたことです。上空を仰ぐと敵機が数機飛んで行くのが見えました。

 暫くして生まれて3か月の妹を背負い、3歳の弟を連れて、機関銃で穴だらけになった列車に鈴なりの人と一緒に東京から幾つもトンネルをくぐって、やっとたどり母と再会しました。

 汽車の油煙で真っ黒になった母の顔を「お母様の顔、おわんみたい!」と言った覚えが有ります。ホント塗りのお椀のような色をしていたのでした。

 父は東京に残っていたので、気難しく厳しい祖父と小姑二人がいる生活は、私達3人の子供を抱えた母は随分辛い思いをしたようです。 精神的な物が生後3か月の妹の飲む母乳に影響が出て緑便が止まらなかったそうです。

 長い事いられずに 父の実家を離れて紆余曲折の後、父がキンダーブックと言う絵本の仕事をしてた関係でいち早く疎開していた絵描きさんを頼って東京の西のお寺の分院にに疎開しました。

  東京からの疎開者は農家の納屋などに住んで居たようです。 どうやって引っ越しの荷物を運んできたのか、今でも解りませんが、お寺の庭に荷物を広げると「東京人が来た、疎開が来た」と沢山の人が集まって来ました。

 その当時田舎ではは珍しかったミシンや寝かすとママーと泣く可愛い「ママー人形」、沢山の紙(当時紙もなかった)など田舎の人には珍しい物ばかりだったのでしょう。

 戦後アメリカの払い下げのバターが配給になり、食べる物とは知らずに大八車の車輪に油代わりに塗っていたのですからその生活振りは推して知るべしでしょう。

 「東京人」と言われて苛められる人も居ました。 幸い医者の祖父から貰ってあったオデキに良く効く軟膏などが有り、近所の子供のトビヒ(オデキのような物)に父が塗って上げて治ったり、お絵かきの紙を上げたり、特派員でマニラに行っていた叔父から送られてきた石鹸(貴重だった)を上げたりしていたので、私達は苛められずに済みました。

 母はリュックに自分の着物を詰めて今で思うと川越あたりだったのでしょう、サツマイモと交換に行って居ました。

 毎日サツマイモ、それも現在の様に美味しい物ではなくて、名前が農林1号なんて言って居ましたね。体に良い事は分かっていても、どうもサツマイモは今でも苦手です。 

 お寺の分院にはお風呂が無かったので、近所の農家にお風呂を貰いに(昔はお風呂に入れてもらう事をこう言った)行きましたが、これがみんなが入って後なのでおうどんの茹で汁の様。 今の様にシャワーなんかない時代。

 父が遂にドラム缶でお風呂を作りました。入る時は円形にした板に乗って沈みます。周りに触ると熱いので気をつけて。子供だから入るのが楽しみでした。

 当時は肥料なんかないので、畑に汚わい(糞尿)を撒いて居ました。近くの大工さんがウチの汚わいを汲んだだお礼に木端を持ってっ来るのでそれがドラム缶のお風呂の燃料です。 

 そのお寺から小学校に入学したんですね。 茶色の皮で金色のキンダーブックのロゴ?が入ったランドセルを背追い、防空頭巾を下げての出で立ちでした。

 お寺を引き上げて家を買って引っ越したところで終戦を迎えました。

 二つ上の近所の男の子と遊んで帰ると母が「○○ちゃん、日本が負けて戦争が終わったのよ」。良く理解できませんでした。

 原爆の事も暫くしてから知りました。

 兎に角着る物もなく衣料切符、食料も切符で配給された物を受け取ります。配給された落下傘で母は絞りの三尺の帯を作り、ロープをほどいて少ない毛糸と一緒にセーターを編みました。

 学校では今思うと恐ろしい、DDTと言う殺虫剤を頭から振り掛けられました。当時田舎は特に不衛生で、私の隣の子なんか髪の毛にビッシリ虱が付いていました。

 おさげをしていた私の髪をひっぱて「ジンケンケーロイ、ジンケンケーロイ」って。意味がさっぱり解りません。母から貰った紫色のリリアンを持って居たらそれを頂戴、と言う意味でした。 そんな事言っては悪いけど、まるで女の子も山猿でしたよ。

 

  後日、当時池袋駅に降り立って唖然としたと父が言っていましたが焼け野原で四方遠くまで見渡せたとの事。ウチの周りも全部焼けていたそうで、家は売ったのか、どうやって手放したのか分かりません。 親は子供を抱えて必死に避難場所を探してのですね。

 この年になって、今こうして居られるのは命からがら、逃げる場所を確保した両親の判断と行動力があったからだと思います。

 私の叔父二人も戦死しました。 亡くなられた方達のご冥福をお祈りいたします。 

 ほんの少しの記憶の一部を日記として残します。 


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コメント 13

green_blue_sky

71年目の終戦ですね。
記憶にあると鮮明でしょう。
記録や映画などで見る15日はわかりますが・・・
平和は重要。
by green_blue_sky (2016-08-15 23:06) 

きよたん

忘れてはいけない貴重なことを記事にしていただき
ありがとうございます。
周囲の人や両親から断片的にしか聞いたことがないので
当時、子供を守るため親たちが必死で生きまた子供たちも
けなげに生きることに集中していた時代
具体的な体験談でよくわかりました。
いま一度平和の大切さを考え祈る日それが終戦記念日なんですね
by きよたん (2016-08-16 05:48) 

リュカ

こういう思い出を書いてもらって読むことができるのは
ありがたいと思います。
わりと戦争を体験した年代の友達はいる方だと自分でも思うのですが
約2割ですか・・・

今のうちにもっともっと知っておくべきですよね。
by リュカ (2016-08-16 15:32) 

ぼんぼちぼちぼち

バターを食べるものとは解らずに大八車に塗っていた話、
野坂昭如先生の「アメリカひじき」を思い出しやした。
あぁ、あの小説のような類いのことって ほんとだったんだなぁって。
貴重なお話をありがとうございやす。

by ぼんぼちぼちぼち (2016-08-16 22:28) 

Ginger

戦争の一番の被害者はやはり民間人ですよね。。。原爆も悪魔の所業だけど、東京大空襲だって大規模テロとしか言えない。毎年、下町の川で15日に灯篭流しをしますが、ここでたくさんの方が命を落とされた悲劇と、柔らかい灯りの灯篭が流れて行くのを見ると、涙が出てしまいます・・・。
戦争を体験した方の真実の話を聞けなくなるのは、とても怖いです。ponntaさんの記憶はとてもリアルで、そんな中でもお母様はとても明るい方だった、ということを想い、畏敬の念を抱かずにいられません。
by Ginger (2016-08-17 01:34) 

kontenten

バター・・・海外旅行中に、スーツケースのキャスターが巧く動かなくなった
ご夫妻に、親父が『バターを塗ると良く動くようになる』ってアドバイスしました。
戦時中の知恵だったのかも知れませんね^^;Aアセアセ
親父は機械職人でしたので、グリス代わりだと思ったのかも知れませんが・・・
 さて、省線・・・現・山手線の事ですね(^^)
幡ヶ谷生まれの母や伯母たちも省線って呼んでいました。
今のJR川越線も・・・大飯(大宮-飯能)線って・・・^^;Aアセアセ
 ご心配をお掛け致しております・・・胃腸
お陰様で大分良くなりましたm(_ _)m
ただ、仰るとおり・・・グビグビのし過ぎには気を付けます(^o^)
by kontenten (2016-08-17 14:19) 

(。・_・。)2k

貴重なお話しありがとうございます
なかなか聞くことができなくなってますから
もっと書いて欲しいです

by (。・_・。)2k (2016-08-17 16:32) 

ChatBleu

ちゃんと記憶をお持ちの方がどんどん減っていますから、
いろんな形で残していかれると良いと思います。
子供の頃見せてもらった、うちの母の日記、どこにあるのやら(-_-;)
by ChatBleu (2016-08-17 20:45) 

NO14Ruggerman

これは大変貴重な戦時中体験談ですね。
ワタシの母(昭和5年生まれの戦中派)からも太平洋戦争当時の
生々しい記憶を折に触れ聞くのですが、こうやって記録に
残していただくことが後世に伝承される尊い財産だと思います。
by NO14Ruggerman (2016-08-18 01:02) 

moz

戦争の戦いの事もですが、その時の生活の事はもっとたくさん子供たちに伝えて行かないといけないのだと思います。当時を知る方たちが少なくなっていって日本全体の記憶が薄れてしまわないようにしないと、大義名分とか戦闘機のカッコ良さだとかばかりが後に残ってしまうのかもしれません。母も父も信州だったので疎開等は経験していないようですが、そういえば当時のことをあまり聞いていないな? 今度ゆっくり聴いてみたいと思います。そして、娘にもそれを聞かせてやりたいと思います。
大切な貴重なお話を読ませていただきありがとうございます。
by moz (2016-08-18 07:23) 

えーちゃん

私は、戦時中の話は子供の頃、親から良く聞きました(聞かされた?)。
by えーちゃん (2016-08-18 17:50) 

ファルコ84

私は、終戦直後の生まれなので
戦争の体験はありませんが、
亡き母から体験談はよく聞きました。
それは、想像に絶するものです、
体験した方は皆同じなのでしょう。
悲惨な戦争が二度と起こらぬよう
危険な安倍政権に
注文をつけていきたいと思っております。
by ファルコ84 (2016-08-18 20:24) 

安奈

毎日暑いですが、お変わりありませんでしょうか。
貴重なお話しをありがとうございます。
ウチの両親はponntaさんより年なのですが、
殆ど被害のなかった田舎なので、わりとのんびりしてたらしいです^^;

政府はいつまで韓国に甘い顔を続けるんでしょうね。
今度はJAが、韓国産の肥料を仕入れるとか。
目先の事よりもっと大事なものを考えて欲しいものです。
by 安奈 (2016-08-19 14:07) 

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