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回想(ほんの少しの体験) [雑記]

東京は池袋「ほら、見てみろ!」と言う父の声に縁側に出て見えると、飛行機が煙を吐いてキリもみ状態で墜落して行くところでした。

 

野原に墜落した米兵は下駄や竹槍でやられて酷かった、と後で母に聞きました。

 

焼夷弾が近くに落ちたり、連日の警戒警報のサイレンで、防空壕に逃げたり、いよいよ私の家も危なくなったために、父の仕事の関係の童画家のツテを頼って東京の西へ疎開しました。

 

池袋の駅周辺は見渡す限り何も無かったそうです。

幸い、私の家は無事でしたが売ったのか、どうしたのか分かりませんが、兎に角私たちは、ツテのまた伝ツテを頼ってお寺の分院に居を構えました。

 

父は仕事の関係で兵役を免れましたので、私の年齢だと戦争で父親を亡くされた方が多い筈です。

 

暑い日、友達と帰ってくると、ラジオの傍に母が居て「戦争が終わった」と聞きました。

何せ、小学1年生、何が何だか分かりませんでした。

 

 

ミシン、ラジオ、豊富な紙(当時、絵を描く紙もなかったが、父の仕事の関係で沢山の紙が有った)に、地元の人たちが集まって物珍しげに見ている姿が瞼に焼付いています。

 

当時のその地域では、進駐軍から配給になったバターを大八車の車輪に塗っていたと言うのですから、その生活ぶりは押して知るべきでしょう。

 

「ソカイ、東京人」と呼ばれました。

今まで、綺麗にしていた母は川越の方までリュックを背負ってお芋の買い出しに行きました。

 

お風呂が無いので、知り合いのお百姓さん宅にお風呂を貰いに行きます。(お風呂に入れてもらうのを昔はお風呂を貰うと言いました)

 

私たちは一番最後のお風呂なので、うどんのゆで汁のようです。 私の潔癖症はこんな事が原点になっているように思えます。

 

当時、読売新聞社でマニラにいた叔父から、貴重なキャラメルや石鹸が良く送られてきました。

 

お米の通帳が有り、それを持って下着や食べ物の配給に並んだ記憶も有ります。

 

一升瓶に玄米を入れてそこに棒を入れて「ザク、ザク」と突くのも子供の仕事でした。

 

こんな事言っても、今の人たちは分からないでしょうね。

当時、粗末なものを食べて(食べられれば良い)生きて行くのが精一杯でした。

あの当時、どの親もそうだった様に、両親は子供を守るために必死だったのです。

 

この時期になると、映画や、TVで戦争に関する番組を目にしますが、過去にどのような事が有ったのか、時に触れてもっと報道、放映して欲しいです。

 

戦後復興を遂げて、飽食、贅沢、便利で何でも手に入る世の中になったけど、今、直面する問題を見るにつけ、この先の日本、いいえ、世界に、何れ困難が訪れる様な予感がしてしてならないのですが、思い過ごしでしょうか?

  005a.jpg

霞ヶ浦海軍航空隊の休暇中、帰郷した父親と写真におさまる叔父。

この後、南方で戦死。

丁度、私が一人預けられていた祖父宅に白木の箱が届けられて、祖母と開けてみると、小さな石が出て来たのを見た記憶が。

不思議と祖母が涙する光景は記憶にない・・・。

      

 

 

 

 

 


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般若坊

御幼少の記憶に、戦争を記憶されておられる方々は少なくなりました。
私は戦後の食糧難の記憶はありますが、戦争の記憶(爆撃や、疎開)の記憶はありません。
しかし生きるために精一杯の努力をした、日本人の姿を忘れてはならないと思います。ともすれば昨今の風潮は軽薄短小。
政治家も官僚もマスコミも国民も皆、軽すぎるとおもいます。丹田に力を込めて、今の社会を建てなおさなければならない時期に来ていますね!
この国を守るために戦死、戦病死された方々に、今の世の中の風潮は申し訳ないと思います。
by 般若坊 (2011-08-14 22:01) 

green_blue_sky

こんにちは。
多くの犠牲で今の日本があること忘れずに、終戦をお祈りしましょう。
by green_blue_sky (2011-08-15 08:42) 

リュカ

こういう話、もっともっと聞きたいです。
知ること、これって本当に大事だと思います。
くだらないテレビ番組流すよりも、ほんと、こういう話をどんどん伝えていってほしいですよね。
この時期だけに限るのではなく。
by リュカ (2011-08-15 11:10) 

green_blue_sky

PS
日射しの厳しい時は外出しないようにしてください。暑すぎます(ー。ー)フゥ
実家のほうがかなり片付いてきたので元気になってきました。
by green_blue_sky (2011-08-15 11:59) 

吟遊詩人41

黙祷・・・・・
by 吟遊詩人41 (2011-08-15 12:03) 

フサヲ

恥ずかしいことに、今日という日を忘れていました。
(6日は意識にあったのですが・・・)
小学生の頃は夏休みの登校日でした。
また、2学期が始まってからだったように思うのですが、
戦時中の食事、ということで、それに近しいものが給食で1週間でました。
(内容だけでなく量的にも)
そして、その時は、近所のおじいさんおばあさんを招いて、
毎日ちがう方を囲んでの給食でした。
それで、自分は結構、戦争のことについて知っている、と、
子供心に思っていたのですが、それは間違いでした。
大学生になって、広島県の友達が沢山でき、
その人達は皆、6日は式典に行ったり、行けなくても非常に出たがったり、
TVで見ようと誘ってきました(一緒に見ました)。
同じ年の子達なのに、何が違うんだろう・・・、と、
あの時の考えさせられた瞬間が、今でも胸に残っています。。。
by フサヲ (2011-08-15 17:48) 

pom405

リアルな文面に感動しました。
やはり経験者から聞くに勝る話はないですね。
私の勤め先でお客さんが私に話しかけたことがあり、
「あんたらにはわからんだろうけど、昔はものがなくて、
月給500円くらいの時に、今思えばしょうもないカッターシャツ一枚が
500円だった。物がなかったから仕方なかった」など、いろいろ聞きました。このようなお話をどれだけ後世の人に伝えていけるでしょうか。

また色々と教えてください。
少しでもそういうお話耳に入れておきたいと思います。
by pom405 (2011-08-15 20:39) 

お好み焼き屋のおばちゃん

先月、伯父さんが亡くなりました、92歳でした。
被爆者で、最後は癌との戦いでした、戦争を知る身近な人がまた一人いなくなりました。


by お好み焼き屋のおばちゃん (2011-08-15 20:48) 

Mosel

私の親も戦争体験世代です。田舎だったためか、貧しい記憶はあるけれども、食べるものに苦労したという経験は、都会の人よりは少なかったようです。進駐軍のジープ、珍しい食べ物、そして南海大地震の経験などを聞いたことがあります。
思想弾圧については戦前も、そして戦後にも同様の経験があったとのことです。
by Mosel (2011-08-15 23:27) 

HIROちゃん

大変でしたね。僕は戦争の体験は
ないんですけどテレビ・DVD等で見ると
とても悲惨でした。特攻隊が水盃を交わし
手を振りながら笑顔で戦地飛び立つ画像が
とても感動的でした。
by HIROちゃん (2011-08-17 10:37) 

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